けんぽの部屋

2018/08/15

「平穏死という人生のしまい方」                 健保常務理事 篠原正泰

 

 健保に来てから、医療や健康の本を読む機会が多くなりました。

健保の同僚Nさんから「お勧めですよ」との声で手にとったのが、『平穏死という生きかた』という本です。

特別養護老人ホームの医師である石飛幸三(1935年生)さんが書かれたものです。

 

 最近は新聞でも2025年問題という文字がよく踊ります。

 団塊の世代が後期高齢者(75歳以上)になって全国で3500万人もの高齢者数となるなどといわれています。

 本書は、まず「日本は世界初の多死社会を迎えることとなる」と説きます。

 

 「楢山節考」などにある口減らしが必要だった時代から餓死のない豊かな時代になり、医療技術も進んで長寿となり、結果として高齢になってから多くの人が「死」を迎える社会を作ってきたことになります。それは一面幸せなことなのでしょう。

 

 しかしそうした“日常生活化”しつつある「死」を、その「死に方」についてリアリティをもって受容していくコンセンサスがないのでは? 多死社会では「平穏死」という死に方が適切なのではないか?そういう文化を創っていくのが大切ではないかというのが本書の提言でした。少なくとも「死」は「縁起でもない」と遠ざけられ、何となく目を逸らしたい、寝たきりでも生きているなら死ぬよりも良いのでは?といった生死の対極論的な発想で十分な議論がないままというのが現状といってもいいのかも知れません。

 

 石飛さんが言うには、「生物は『死』が近くなるとその準備を始める」と言っています。

具体的には、「まもなく死ぬことを身体が分かるから、あまり食べなくなる」。

 決して「食べない(食べさせない)ことが理由で死んでしまう」ということではない。

 だから死に直面して食べられなくなったときに、胃ろうなどを人工的に造設し、強制的に栄養を与えて寿命を伸ばすことに意味があるのかという問いです。

 「胃ろう」を受けている人が20万人とも30万人とも言われています。そのほとんどが寝たきりであり、「生」きてはいるものの尊厳的には「死」と等しい、石飛さんの言葉をそのまま借りれば「生ける屍」と云っても良い状況に置かれているんだそうです。

 人間はいずれ死を迎える動物です。そして「死」の瞬間まで食べたいものを食べベッドに張り付けられることなく死んでいくのが尊厳的な「死」のあるべき姿、「平穏死」でないかといいます。

 

 難しい問題もあります。医師は、死んでしまうかも知れない患者を前にして生命を維持する方策があるのにそれをしないことは「無作為の殺人」を問われてしまう可能性があります。生命の尊さを訴える人たちの考え方も一様には否定できないものもあります。助ける方法があるのに助けないのは「保護責任者遺棄致死罪」に問われるという話もあります(訴訟になった例はないらしいですが)

 

 「生まれる」ことと違い、「死ぬ」ことは倫理観・宗教観や死生観、手短かに言えば自分自身が「どう生きたいのか」という個人の人生観まで及ぶ実に難しい問題だなと思った次第です。

 「あの世でまた会いましょうね」といって残された者と亡くなっていく者がお別れできるような終末期の“平穏死の文化”をわれわれ自身が作りあげていくということも大切なことなのかも知れません。

 

<参考文献>(こちらはまだ読んでいませんが)

・『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか』(講談社文庫)

・「『平穏死:を受け入れるレッスン 自分はしてほしくないのに、なぜ親に延命治療をす

 るのですか』(誠文堂新光社)